亀岡・楽々荘田中源太郎翁旧邸・国登録有形文化財・京都府指定等文化財

楽々荘にについて

楽々荘にまつわる物語

楽々荘は亀岡市の北町にて料理旅館を営ませて頂いております。

昭和二十三年頃貴族院議員で明治時代の京都の政治経済界の大立役者、そして現在のトロッコ列車として有名な旧山陰線生みの親、 田中源太郎翁の生家をお譲り頂き創業いたしました。

以来、飲食や観光を主に亀岡の皆様に御愛顧頂いて楽々荘は育ってまいりました。 先ずはじめにこのお邸の主であった田中源太郎翁についてご説明いたします。

田中源太郎翁

田中源太郎翁はペリーが浦賀に来航した嘉永六年一月に旧桑田郡亀山北町に、田中蔵一の次男として生まれました。 田中家は代々亀山藩の御用達をつとめた商家で、源太郎の父蔵一の代には櫓奉行格に取り立てられ、藩の会計方をつとめていました。

兄の天折により田中家の家督を受け継ぐことになった源太郎は幼少の頃より学問に秀で、 北村龍象の私塾学半堂や横井忠直、山本覚馬等に師事し儒学・政治経済・諸学問をおさめました。

源太郎は早くからその商才を現わし、金融、運送といった家業はもちろんのこと、関西有数の事業家として活躍していきます。 そして亀岡銀行(京都銀行の前身)、京都株式取引所、京都電灯会社等多くの事業の創設に頭取・社長や監査役として関わり、その数は三十余を数えます。

そして、国に拒まれた鉄道建設を民間の力でやり遂げようとした京鶴鉄道の夢=京都鉄道株式会社は明治の男のロマンともいえるでしょう。

また政界では、二十一才での桑田郡追分村戸長を皮切りに、府会議員、府議会議長、衆議院議員、貴族院議員としてその生涯のほとんどを政治の道に捧げました。貴族院議員には多額納税により選ばれ、三十八才の時すでに、その地祖は京都府下第一位でした。

大正十一年四月三日の山陰線清滝駅での悲劇的な事故により、その六十九才の生涯をとじるまで、京都の政財界の元老として尊敬を集めていました。

田中源太郎翁旧邸

楽々荘は田中源太郎翁の旧邸を今に伝えるものです。源太郎は生家を明治三十年代後半に五年の歳月をかけ、京都鉄道(山陰線)の開通 に合わせ改築しました。

山陰線(現在のトロッコ列車)のトンネルや鉄橋と同じレンガをつかった洋館や豪壮な書院造りの和館や 玄関(平成九年国登録有形文化財指定)と700坪の庭園が見事な対比を見せています。

この回遊式池泉庭園は明治の元勲山縣有朋の別 荘「無隣庵」や平安神宮神苑等の庭で 近代造園の総合プロデューサーとして有名な七代目小川治兵衞 (植治)の作と伝えられています。

庭園 庭園

平成22年春に、京都府名勝(文化財)に登録されました。明るく開放的な作風の中に伝統的な造園法が巧みに取り入れられています。 庭園内には、源太郎が山陰線建設の時に買収した亀山城にあったとされるものが多く伝わっています。

亀山城は明智光秀の築城になりますが、本能寺の変の後豊臣の所有となりました。 そしてその豊臣の紋の入った大きな石燈篭や鉄の井筒が昔を今に伝えています。

建物(玄関・日本館・洋館の3棟)は、平成九年に国登録有形文化財になりました。また、庭園も平成二十二年春に京都府名勝(文化財)に登録されました。

このような由緒あるお庭で『移りゆく季節を映しこみ、亀岡での一時を楽しんでいただければと、心をつくしたおもてなしで・・・』をこころがけております。

楽有其中 「楽しみはその中に有り。」論語の中の孔子の教えです。この言葉が私ども楽々荘の願いです。 楽々荘は田中源太郎翁のお邸を亀岡の応接間として今に伝えております。

らくらく